さて、ユースアメリカグランプリというバレエコンクールのために、生まれて初めて尼崎へ赴いた。

 結果は、ベルリン、バーゼル、ジョフリーからスカラシップをいただき、初めの一歩としての成果を得たと思う。(これからも、変わらず努力をしていかなければならない。ね!)
 私は、日曜日のレッスンを終わらせてから最終新幹線で移動したこともあり、少々睡眠障害に陥ってしまった。3日目に21時30分に眠って23時30分に起きてしまった。すると、nhkでウクライナ国立バレエ団の日本公演に至るまでのドキュメンタリーを放映していた。
 京都のバレエスクール寺田バレエが全面バックアップして、世界中に散らばったバレエダンサーを終結させて実現していた。
 ウクライナからバレエダンサーは海外で働ける宝として、男性ダンサーも海外に出ることを許されていた。その中でも志願して兵隊に行ったり(亡くなって劇場でお葬式が営まれていた)、残っている方もいらした。
 私は、寺田バレエの主催者の息子さんが、11歳からウクライナ国立バレエの学校で学び、現在副芸術監督であったことを知らなかった。彼は、バラバラになったバレエダンサーを訪問し、日本で公演を口どきこの公演をまとめ上げた。
 そして、9月にキーロフヘ戻って行った。私は襟を正さなくてはいけないと思ったのは、80歳を過ぎた寺田バレエの代表を見てである。私なら、自分の息子を見送れるだろうか?
 彼女の一言一言が心に響いた。立派としか形容できない。同じようにははできないが、努力したいと思う。 

愛するキーウ

コンクール